京都タウンマップ
嵯峨・嵐山方面

top>>嵯峨・嵐山>>等持院

洛中/二条城・御所周辺

洛東/祇園・岡崎周辺

洛北/大徳寺・植物園周辺

洛南/京都駅・東寺周辺

洛西/大原野・大枝周辺

嵯峨・嵐山方面

鞍馬・花脊方面

伏見・醍醐方面

等持院と言えばこの衝立。力強い筆が印象的。

等持院 衝立

等持院は、京都府京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院で、山号は万年山。開基は足利尊氏で、尊氏の墓所としても知られています。周辺には龍安寺や仁和寺、妙心寺などの有名寺院が散在し、少し足を伸ばすと、金閣寺や嵐山もあります。他にも立命館大学もあり、四季を通じて人通りが絶えない地域に等持院は立地していますが、等持院は表通りから少し奥まったところにあり、観光シーズンでも意外と拝観される方が少ない寺院です。

    等持院の歴史 等持院 看板

等持院は庭が美しく、足利歴代の木造が有名。

等持院は室町幕府初代将軍、足利尊氏が二条高倉の等持寺の別院として、夢窓疎石を開基に迎えて建立したとされています。等持院とほとんど同じ名称の等持寺は、二条大路高倉の東南に、その尊氏の屋敷がありましたが、その屋敷は二つの側面がありました。一つは室町幕府の政庁の側面と、もう一つは禅宗寺院としての側面がありました。その為、尊氏の屋敷は、尊氏の住居として「二条高倉邸」と呼ばれたり、禅宗寺院として「等持寺」と呼ばれました。尊氏は弟の足利直義と共に、夢窓疎石に深く帰依していて、夢窓もそれに応えて様々な建言をし、鎌倉幕府の滅亡から始まる戦乱で、亡くなった兵を安国寺、利生塔の創建して弔うように勧めました。他にも後醍醐天皇の霊を鎮めるために、天龍寺の創建を建言して、実現させました。それまで仏教は、叡山延暦寺の天台宗が、大きな力を持っていて、禅宗は鎌倉後期から勃興した比較的新しい宗派ですが、禅宗独特の生死観から武士と深く結びつくようになり、大きな力を持つようになりました。尊氏も禅宗に帰依して、夢窓疎石と親交を持つようになり、自分が建立に携わった寺院の多くの開基に招きました。そうして自宅を禅寺にして、開基に夢窓疎石を迎えたのです。その後尊氏は、京都の別荘地といえる衣笠の地に、等持寺の別院を設けることにしました。南朝興国2年・北朝暦応4年(1341年)のことです。

等持院 庭園

同じ夢窓疎石の作庭だが、天龍寺と少し趣が違う。

当初は、北等持寺と呼ばれていました。最初の山号は鳳凰山でしたが、夢窓疎石の法嗣の義堂周信が住持だったときに、万年山に改められました。別院とはいえ、初代征夷大将軍が建立した禅宗寺院は壮大なものでした。仏殿・大方丈・御殿・御影堂・大庫裏・願王殿・鐘楼・宝蔵などの他に、春日社と稲荷社の鎮守二社があり、これらをあわせて二十六の建物があったとされています。芙蓉池と心字池は、天龍寺同様、夢窓疎石が庭園設計しました。延文3年(1358年)四月二十九日、足利尊氏が亡くなります。亡骸は真如寺で葬儀が執り行われた後、等持院で埋葬されました。芙蓉池と心字池の間にある宝筐印塔が、尊氏の墓です。尊氏が埋葬された後は、歴代将軍の葬儀は、等持院で行われます。しかし、その後の火災で多くの伽藍を焼失し、長禄元年(1457年)の尊氏没後百年祭に八代将軍足利義政が、尊氏百年祭を挙行し、等持院を再興させました。仏殿や御影堂、庫裏や方丈の他、多くの伽藍が再建されました。応仁の乱で、柳馬場の本寺である等持寺が焼失したため、別院だった現在の等持院が本寺になりました。その等持院も戦国時代末に、再び灰燼に帰してしまいます。豊臣秀頼は片桐且元に、等持院の再建を任じ、慶長11年(1606年)に竣工しました。江戸時代に入って、文化5年(1808年)にみたび火災をうけ、またも全てを失ないます。十年後の文政元年(1818年)に再建され、妙心寺の塔頭海福院の方丈が等持院に移され、本堂となりました。

  

等持院 霊光殿霊光殿の中に歴代将軍の木造がある。

幕末になると、等持院は火災とは別の災難に合います。時は尊皇攘夷の風が吹き荒れ、建武の新政で、朝政を取り戻した後醍醐天皇を倒した尊氏は、尊皇派の志士から国賊の誹りを受け、文久3年(1863年)二月二十二日の夜、尊皇派の志士が等持院から尊氏 義詮・義満の木像の首を盗みだし、三条大橋の下でそれぞれ首に位牌を掛け、「逆賊」の立て札がありました。第二次大戦前には、商工大臣の中島久万吉が、尊氏のことを「足利尊氏は人間的にはすぐれた人物だ。」と雑誌に書いたところ、国会で問題視され、野党から激しい追求にあい、辞任せざるを得ない羽目になったこともあったほど、尊氏を取り巻く環境は厳しく、その菩提寺である等持院も「朝敵の寺」として肩身の狭い時期がありましたが、現在では紅葉の綺麗な観光名勝として、多くの人が訪れ、人々に愛されています。

  等持院の散策
等持院 庭園

回遊式の庭園は、変化に富んでいて長時間見ていても飽きない。

等持院は大きな通りに面しておらず、少し奥まった住宅街にあります。有名な寺院にも拘わらず、季候の良い時期でも、拝観者がさほど多くないのは、そのせいかもしれません。通りに面した山門から、庫裏の前にある中門までは距離があります。拝観者受付になっている庫裏で拝観料を支払うと、最初に眼にはいるのが、大きな達磨図の衝立です。この衝立は、元天龍寺派管長である関牧翁が描いたもので、天龍寺の庫裏にも同じ(?)のがあります。力強い線で描かれていて、達磨の視線は見る者を見据えているのではなく、やや上方を睨んでいます。精悍な顔つきは、見る者をとらえて放しません。拝観順路の通りに進んでいくと、次は方丈になります。方丈廊下はいわゆる鶯張りになっていて、歩くとキーキー鳴ります。方丈はさほど大きくなく、従ってその南庭も大きくありません。建物自身は、元和二年(1616年)に福島正則が妙心寺の塔頭、海福院から移築した物で、長い歴史があります。

等持院 尊氏墓

足利尊氏の墓。室町幕府の開祖の墓碑とは思えないほど小さい。

次に向かうのが、霊光殿になります。ここには足利十五代将軍と徳川家康、夢窓国師の等身大尊像があります。但し、義量と義栄はありません。他に伝弘大師の作とされている本尊の地蔵尊、達磨大師の像があります。注目するのはやはり、足利尊氏の像です。尊氏の姿を写したものに、この彫像他にも絵画などもあります。一般的に知られているのは、学校教科書に掲載されているザンバラ髪の肖像です。この肖像画は、最近の研究で尊氏ではない、との論文が発表されて話題になりましたが、仮に他者でなく、尊氏のものであったなら、ここの彫像と顔付きの違いに戸惑うかもしれません。足利歴代の将軍の葬儀が等持院で行われたため、その彫像があるのは分かるのですが、家康の彫像があるのには、違和感があります。この像は、当初石清水八幡宮の豊蔵坊にあったのを後に等持院に移されたとされていますが、その謂われについては不明です。霊光殿を出ると、方丈北の庭園に向かいます。この庭園の作庭は、夢窓国師で、天龍寺と並び、夢窓の代表的な作庭といわれ、夏から秋にかけての庭の表情は、絶品とされています。心字池や芙蓉池を中心とした回遊式の庭園で、植栽が見事に配置されて、見る者を飽きさせません。庭園上部には、清蓮亭と名付けられた茶室があります。これは尊氏没年百年忌の法要の時に、将軍義政が造ったもので、寺の創建時にはありませんでした。この清蓮亭から眺める庭も絶品で、方丈から眺めるのとは違った趣があります。その回遊式庭園を廻ると、足利家の供養塔と尊氏の墓があります。尊氏の墓は宝篋印塔と呼ばれ、宝瓶には蓮花を押した文様がある。室町幕府を創設した人物にしては意外に小さく、権現様に祀り上げられた徳川家康との違いに大きな差を感じます。供養塔も宝篋印塔より大きいですが、徳川家のそれと比べるまでもありません。

等持院へのアクセス

〒603-8346  京都市北区等持院北町63番地

TEL(075) 461-5786

京都市バス「立命館大学前」より徒歩10分

駐車料金  : 無料

拝観時間  : 午前9時~午後5時

拝観料金  : 500円(一般,大学,高校生),300円(中学生,小学生)

ホームページ  : 公式ホームページはありません。

周辺の観光・宿泊

観光地: 金閣寺 仁和寺 広隆寺 太秦 妙心寺

宿泊施設: 嵐山辨慶 宿らんざん ホテル嵐亭
高雄もみぢ家本館