天台宗の寺院で、山号は小塩山です。本尊は薬師如来で、春には多くの桜の花が咲くことから、花の寺として知られています。西国薬師四十九霊場第四十二番札所になっています。
本堂は慎ましい中にも凛々しさがある。
勝持寺の歴史勝持寺は白鳳8年(680年)、天武天皇の勅を奉じて役行者が開いたと伝えられています。延暦10年(791年)に桓武天皇の勅命で、最澄が堂塔伽藍を再建して薬師如来像を安置しました。はじめ小塩山大原寺と号したが、仁寿年間(851~854年)に仏陀上人(千観僧都一に勝持上人)が文徳天皇の帰依を得て伽藍を再興し、名も大原院勝持寺とあらため大原野神社の供僧寺としました。それより多くの伽藍が造営され、塔頭子院だけでも四十九院を擁する大寺となりました。勝持寺が「花の寺」として有名なのは、230首もの桜の歌を詠い続け、各地を巡った西行法師が山家し、隠棲した地と伝えられるからです。
山門は坂を登り切ったところにあり、門を見るとホッとする。
南北朝時代に、六波羅攻略にあたってたまたま当寺に立寄ちよった際、ときの住僧が気転をきかせて「勝持」としるした旗竿を献じたところ、尊氏は戦勝の吉瑞なりとして嘉納しました。それより足利氏の庇護を得て寺運は隆盛しました。いまなお歴代足利将軍の古文書等を多数に所蔵する所以です。室町幕府から篤い保護を受けるようになりましたが、しかし応仁の乱で仁王門を除きすべての伽艦は焼失してしまいました。天正年間(1573~92年)に青蓮院宮尊朝法親王は当寺の再建につとめ、織田豊臣両氏もまたその保護にあたりました。江戸時代に入り徳川5代将軍綱吉の母・桂昌院の援助で多くの伽藍が再建され、明治以降に現在見られる寺観が整いました。境内には古来桜の木が多く、洛西屈指の花の名所と言われ、春のお花見シーズンには、多くの観光客で賑わいます。南北朝時代に婆娑羅大名と言われた佐々木道誉が、政敵の斯波高経の鼻を開かし顔をつぶすために、「京中の道々の者の上手ども、独りも残さず皆引き具して」ここで鑑櫻の宴をおこなったのをはじめ、中世にはしばしば花見の宴が催され、洛東の花頂山・若王子とならび称せられる花の名所となりました。細川幽齋も長岡にいたとき、当寺で連歌を興行しました。とくに元亀2年(1571年)二月五日の歌会は世に大原千句といわれ、そのときの懐紙は今もなお寺の什宝となっている。
仁王門は応仁の乱から唯一焼失を免れた。
勝持寺に向かう道は細い道で、最寄りのバスを降りて大原野道を少し歩くと大原野神社があり、また少し歩くと勝持寺の仁王門が見えてきます。この門は応仁の乱の兵火から唯一残った寺の建造物で、他の建物と比べると少し古びた感じがします。仁王門に収まっている阿吽の仁王像は、建物同様古びた感じがしますが、この像は元々近くにある願徳寺にあった仁王像で、本来の仁王像は収蔵庫で保管されています。門をくぐり、参道をしばらく歩くと、石段の上に小さな南門が見えてきます。南門を通ると受付があり、受付で入山料を支払うと、本堂・不動堂などが立っているのが見えます。本堂は寺域同様、小振りな建物で、本堂の右手には、収蔵庫の瑠璃光殿があります。瑠璃光殿には、録倉時代の本尊薬師如来坐像を祀られています。その胎内仏である薬師如来座像は約16㎝の像で、貞観時代の作とみられ、光背に七仏薬師や十二神将像が彫られていいます。
ほかに、仁王門にあった鎌倉時代の慶秀作の金剛力士像、日光月光両菩薩像、西行法師像、醍醐天皇勅額なども収蔵しています。4月上旬、西行手植えの3代目という西行桜をはじめ、場内には約100本の桜が咲き連なり、「花の寺」の名にふさわしい見事な景観が見られますが、秋の紅葉も素晴らしく、色鮮やかな四季が楽しめます。本堂の阿弥陀堂左手前には弘法大師ゆかりの石不動明王を安置する不動堂や、歌枕の瀬御井の泉があります。西行法師が植えたという西行桜は3代目が健在で、4月初めには「地にとどく西行桜したしけれ」の高浜虚子の旬のように花咲きます。
不動堂は弘法大師が眼病に悩む人達のため、
不動明王に病魔退散を祈願された 。
〒610-1153 京都市西京区大原野南春日町1194
TEL(075) 331-0601
阪急東向日から阪急バス「南春日町」下車徒歩で約30分
専用駐車場はありません
公式ホームページはありません
宿泊施設:京都エミナース