御池通に架かる橋の門柱
現在の堀川は川としての役目はほとんどありませんが、大雨時の下水道のバイパスとして活躍しています。下水道に収まりきれない雨水と下水が放流されて、川としての役割を取り戻します。御池通から南は暗渠として地下に隠れていますが、今出川と御池の間は姿を現しています。
堀川の歴史堀川は平安建都のときに開削された運河でした。公家の邸宅が堀川沿いに並び立ち、それぞれの庭に水を供給していました。当時は朱雀大路から見て東西に運河を開削したので、西堀川(現在の紙屋川)に対し、東堀川と呼ばれていました。また江戸時代には北山や丹波から材木を堀川を利用して運んだので、堀川沿いには多くの材木商が立ち並んでいました。今でも堀川通りには少ないながらも材木商が数軒あります。
堀川は御池通から南は暗渠となっている。
一条戻り橋は有名な割りには小さな橋。
今出川と堀川が交わるところには幽霊伝説で有名な一条戻橋があり、時折観光客が記念撮影をしています。一条戻橋は794年の平安京造営のときに架橋されています。この橋には様々な伝説があります。まず、橋の名前に『戻り橋』の名称が付いた理由ですが、こんな話があります。平安時代の初期に漢学者の三善清行の子で浄蔵は、紀州熊野で修行中、清行危篤の報せが届きます。浄蔵は存命中に話がしたいと、都へ急ぎました。 しかし、その願いも空しく、浄蔵が京へ着いたときには清行はすでに亡くなり、 一条通の堀川に架かる橋の上で、父の葬列に出くわします。「何であと一日早く帰ってこれなかったのだろう。」浄蔵は嘆き、「もう一度話がしたい」と願いを込めて祈祷しました。すると、にわかに闇が立ち込め、と同時に閃光が走りました。そしてその時清行が蘇り、半身を起こしたのです。浄蔵と清行は抱き合い、親子の最後の会話をすることができたのです。それからこの橋を、死んだ人も生き返るという意味から 戻り橋と呼ぶようになりました。他にも様々な伝説があるようです。又戦争中は『戻り橋』の名前の験を担ぎ、出征兵士の見送りの場所として使われました。
今では「堀川」の名称は京都市民にとって、川の名前と言うよりも通りの名称である方が馴染みがあります。
堀川御池には堀河天皇の里内裏があった。
現在の堀川はほとんど水の流れがない。